2000年6月。
上海の空には、もう夏の気配が漂っていた。
梅雨に入ったはずなのに、雨は少なく、街を包む空気はどこか軽やかだった。
毎日聞こえる中国語が、少しずつ耳になじみ、「生活の音」として心に染みこんでいった。
週に一度の家庭教師の時間。
先生が部屋に入ると、空気が一瞬で変わる。
黒い髪を束ねた彼女は、ノートを開きながら言った。
“要学会听,也要学会懂。”(yào xuéhuì tīng, yě yào xuéhuì dǒng)
聞くだけでなく、心で理解しなさい。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが静かに動き出した。
「理解する」とは、言葉を訳すことではなく、その人の気持ちを感じ取ることなのかもしれない。
ある午後、散髪屋に入った。
シャンプーを泡立てながら、理髪師が笑って言う。
“舒服吧?”(shūfu ba?/気持ちいいでしょ?)
僕は思わず「很舒服!(hěn shūfu/とても気持ちいいです)」と返した。
言葉が通じた瞬間、鏡の中でふたりが同時に笑った。
それは、辞書では学べない会話のぬくもりだった。
クリーニング屋のおばさんが、洗濯物を受け取りながら嬉しそうに話しかけてきた。
“我在学日语!”(wǒ zài xué rìyǔ/日本語を勉強してるの!)
「すごいですね」と答えると、彼女は「谢谢!(xièxie)」と笑顔で返した。
上海では、どんな場所にも学ぶ人がいる。
言葉を通してつながる喜びが、日常のあちこちに転がっていた。
六月十日。
クラスメートの日本人女性が、上海人の男性と結婚することになった。
花園飯店の披露宴では、日本語と中国語が交互に響いていた。
“恭喜!恭喜!”(gōngxǐ gōngxǐ/おめでとう!)
その声が、会場中をやさしく包み込んでいた。
新郎の父親が挨拶で語った「缘分(yuánfèn/縁)」という言葉が、妙に胸に残った。
国を越えて出会う縁――それもまた、言葉が運んでくれる奇跡なのかもしれない。
六月の終わり、友人たちの帰国が近づいていた。
別れ際に交わす言葉は、いつも同じだった。
“再见!”(zàijiàn/さようなら)
けれど、その響きの中には「また会おう」という希望があった。
上海の街を歩きながら、僕はその言葉を小さく口ずさんでいた。
“我们会再见的。”(wǒmen huì zàijiàn de/きっとまた会えるよ)
中国語が少しずつ暮らしに溶けていく。
食堂のざわめき、友人の笑い声、街角の売り声――すべてが学びの場になっていた。
「语言是生活的心。」(yǔyán shì shēnghuó de xīn)――言葉は暮らしの心。
六月の上海で、僕はようやくその意味を理解しはじめていた。

今回の一言
“语言是生活的心。”(yǔyán shì shēnghuó de xīn)
言葉は、暮らしの心。
中国語を学ぶということは、人の温度を感じること――そう気づいた六月だった。