なぜ、自分が中国語を話すようになったのか。
その原点にあるのが、25年前の上海留学だった。
1997年、宮崎大学工学部に入学した頃、
海外といえば欧米しか頭になかった。
ところが、大学1年の終わりに出会った同級生のH君──
幼少期を中国で過ごした帰国子女の彼との出会いが、
僕の世界観を大きく変えた。
彼との会話をきっかけに、中国という国に興味を持ちはじめた。
「你好(nǐ hǎo)」という言葉の響きに、
どこか温かいものを感じたのを覚えている。
NHKのラジオ講座とテレビ講座で中国語を学び、
日々の中で少しずつ音とリズムを身体に刻んでいった。
大学の専攻とは全く関係のない、完全な独学。
それでも、毎日カセットテープに録音して2年間コツコツと続けた。
語学は「続けること」こそが力になる──
“学习没有捷径(xuéxí méiyǒu jiéjìng)”
(学びに近道はない)という言葉を、
この頃の僕は知らずに実践していた。
1998年のある日、熊本でひとりの女性と出会った。
趙美麗(Zhào Měilì)さん。
アマチュアのシャンソン歌手として活動しながら、
「母親の故郷・上海でコンサートを開きたい」という夢を語ってくれた。
その穏やかで芯のある声が印象に残っている。
数年後、2000年に僕は上海交通大学へ交換留学し、
その夢を叶えるお手伝いをすることになる。
2001年2月、上海市・華亭ホテル。
ステージの幕が上がり、満席の観客の前で趙さんが語った。



「2001年2月1日付 毎日新聞 熊本 に掲載された記事」
“日本にいても、私の祖国は中国です。”
母親の故郷で歌える喜びを、静かに、力強く伝えていた。
あの夜、熊本と上海が一本の歌でつながった。
“音乐能让人心相通(yīnyuè néng ràng rén xīn xiāngtōng)”
──音楽は人の心を通わせる。
その言葉の意味を、僕はあの舞台で実感した。
留学中、僕は「上海留学日記2000」というホームページを作り、
見たこと、感じたことを日本へ発信していた。
当時はまだインターネットが普及しはじめたばかりで、
ダイヤルアップ接続が主流だった。
あの頃の上海には、すでに高層ビル群が立ち並んでいたが、
路地にはまだ人々の暮らしの音が息づいていた。
夕暮れの外滩(ワイタン)を渡る風、
寮の仲間と笑い合った夜、
送別会で交わした“再见(zàijiàn)”の言葉。
どれもが今も鮮明に記憶に残っている。
“梦想成真(mèngxiǎng chéng zhēn)”──夢は叶う。
あの舞台で、あの街で、それを教えてくれた人たちがいる。
今回は、上海の著しい変化や、
上海交通大学付近の街並みを歩きながら、
留学時代に思いを馳せ、友人との再会を楽しむつもりだ。
再见,上海!
ふたたび、あの街へ。
明日から5日間、行ってきます。
