上海市内医療情報
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2000年6月28日(水) 上海を出発、列車で無錫市へ 15:52発の列車で無錫へ行く。電車の中で隣に座っていた中国人学生と友達になる。声を掛けるまでずっと彼は英字新聞に目を通していた。上海人で東華大学の学生らしい。無錫の方に分校があって授業を受けに行くということだった。結構いろいろ話したので仲良くなり、上海で再会する約束をした。2時間後の17:52分に無錫へ到着。先に無錫へ帰っていた友達、「許贇(シイン)」と彼の友達が出迎えてくれる。無錫の第1印象は宮崎と似ているなといった感じだった。上海のように都会ではないし、人も多くないし。上海のような大気汚染もない。上海の女の人は大声で話してあまりいい印象を受けないが、無錫の女の人はどちらかというと日本人女性に近い印象を受けた。駅の近くで食事をした後、中国で4番目に大きいという湖「太湖タイフー」に行く。面積は琵琶湖の3倍で、どうみても湖ではなく海に思えて仕方ない。日は既に暮れて、上海のように派手なネオンも無い、僅かな街頭の下で釣りをする人もいれば、カップルもいて湖と街とそこに住む人々が共存しているという感じだった。しかし、以前はきれいだった太湖も今は汚染がひどいらしい。近年、無錫市が進めてきた改革開放で、外国企業が参入し、工業用水をそのまま湖に流したのが主な原因らしい。許贇(シイン)からその話を聞いたとき、胸が痛くなった。夜は許贇(シイン)の親戚の家に泊めてもらう。親戚の老人は無錫語という無錫地方の方言しか話さないので、許贇(シイン)が標準語である普通語(プートンフア)で通訳してくれた。
2000年6月29日(木) 無錫市からバスで南西へ1時間、馬山へ 粗末なバスに揺られる事、1時間、9時半に街から離れた農村の「馬山マーシャン」とへたどり着く。風景が街から農村に変わっていくとともに、目の前に大きな大仏が姿を現した、「霊山大仏」だ。馬山の上にそびえ立つ「霊山大仏」は馬山のどこからも拝む事ができるらしい。ここは茶の産地で許贇(シイン)の実家がある。馬山は人口3万の農村で、馬山語という方言を話す。昨日は無錫語、今日は馬山語。中国にはホントにたくさんの方言があって、全く違うので、何を言っているかさっぱり分からない。彼の両親が昼ご飯をご馳走してもてなしてくれた。「太湖タイフー」で採れる魚やエビやら普段は高くて買わないらしい。2時間かけて、ようやく料理が完成した。中国人の客のもてなし方は日本人以上の物がある。でも、これでも今日は料理数が少ないと言っていた。許贇(シイン)の父親は馬山中学校の物理の教師、母親は農民。昼ご飯の後、観光地「霊山大仏」を訪れる。本来なら入場料が50元かかるが、さすが中国、彼の顔パスで無料になった。ここで、日本人の旅行客、それも九州出身の人と出会う。夜は許贇(シイン)の家に泊めてもらう。
2000年6月30日(金) 馬山を後にし、無錫市へ、そして上海へ お世話になった許贇(シイン)の両親に別れを告げて、馬山を後にする。バスに揺られて1時間、風景は農村から都会へと変わっていく。10時に無錫市に着くと、許贇(シイン)の友達の「陳馳(チェンチー)」が無錫駅で待っていた。陳馳(チェンチー)は23歳、許贇(シイン)と同じ無錫人でこの前、上海理工大学を卒業したばかり、昨日無錫へ帰ってきた、と教えてくれた。親が無錫政府の官僚にもかかわらず、上海のコンピューター会社で9月から働く。普通官僚の息子だったら、親のあとを追ってそのまま官僚になる。そちらの方が親がなにもかも世話をしてくれて楽だから。しかし、陳馳(チェンチー)はその道を選ばなかった。本来なら僕たちと会う時でも、官僚の高級車の出迎えがあるのに、彼は普通の人と同じく公共のバス・タクシーで来た。中国ではこういう官僚の子どもは極めて珍しいらしい。僕と許贇(シイン)と陳馳(チェンチー)の3人で、彼らが通ったという中学校を訪ね、その後「錫恵公園」へ行く。錫山と恵山の2つの山で構成されているこの公園の塔からは無錫市内が一望できる。上海と同じ町並みで規模が若干小さい事から、無錫市を「小上海(シャオシャンハイ)」と呼ぶらしい。列車の中で、3日間の旅の余韻に浸りながら、無錫市を後にし、無錫への2泊3日の旅は幕を閉じた。
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