TOP >> 上海留学日記2000 (2000年4月〜2001年2月の交換留学生活)
 


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2000年10月1日(日) 国慶節
今日は国慶節、中国の51歳の誕生日。街の至るところで、中国の国旗が掲げてある。人民広場、外灘はすごい人、まさに”人山人海”(レンシャンレンハイ)。タクシーの中で運転手さんが上海市の人口が1,800万人を超えた、と教えてくれた。広西省から来ている容(ロン)は中国の人口問題をすごく真剣に考えて、心配していた。人口問題は日本人には関係の無い話だが、実際に上海に来て、人の濁流を肌で感じると、これはすごい事態になりそうな気がする。人民の管理については中国政府も収集がつかない状態になっているそうだ。--中国は今日から公安の制服が変わった。従来のシャツをだらっと出した感じの”緑色”からネクタイを締めて、シャツをズボンの中にきちっと入れた”黒色”に変わった。ホントに中国の公安は全身真っ黒になったという感じ。良く肩の部分を見ると、”公安”の文字ではなく”警察”の2文字に変わっていた。これは何か意味があるのだろうか?

2000年10月2日(月)
朝、8時に容(ロン)君を虹橋(ホンチャオ)国際空港に送る。彼は今日の飛行機で、留学先の宮崎大学に帰る。先月の28日に来て以来、わずか6日間ではあったけど、楽しく過ごすことができた。容は来年の3月に宮崎大学を卒業した後は中国に戻って、旅行会社の日本語ガイドになりたいらしい。18歳の時から日本で生活を始めて、既に6年。「中国よりも日本のほうが暮らしやすい」という彼の言葉には考えさせられるものがある。中国は急速に発展を遂げているが、環境汚染、民族的気質や、人口増加、貧富の差の拡大などと数多くの問題を背負っている。

2000年10月3日(火)
上海人の友達の梁舒(リィアンシュー)がやってくる。国慶節というのに仕事があって大変そうだ。今はphoto shopを使って写真を加工してポスターとかを作る仕事をしているけれど、どうやら仕事を変えたいらしい。最近、上海語にはまっている。中国語を勉強しているといっても、ここ上海で話されている言葉は標準語の普通語(プートンフア)ではなくて上海語(シャンハイフア)だから、圧倒的に上海語の環境になっている。買い物をしたりしても、最初は上海語で値段を言われ、分からないそぶりだったら普通語で言い直してくる。上海人の梁舒は簡単な上海語を教えてくれる。挨拶言葉や数字や値段の聞き方など。中国全土で標準語として使われている普通語とは大きく異なる。

2000年10月4日(水) 国慶節
1週間の国慶節の休みもそろそろ終わりに近づいている。中華人民共和国は今年で51周年。テレビをつけると、ケ小平や毛沢東を特集した番組や日本人の眼から見ると理解に苦しむ、洗脳的な要素を持っているような感じのする番組すらある。中国では全ての学生がケ小平や毛沢東、マルクスなどの社会主義国家としての知識を試す試験が課せられるらしい。専門学校でも教養として受けないと卒業証書を手にすることはできないらしい。この試験がなかなか面倒みたいで、「ケ小平の理論が入っているテープを毎日繰り返し聞いて憶えている」という話を聞く。「中国は社会主義の国家だから仕方ない。」と僕の友達が言った。

2000年10月5日(木)
日亜交流クラブの林さんと会う。彼は日本に帰化した上海人で今は日本で生活している。「シルクロードの旅」と称した中国全土を旅行する旅で、先々月東京の大学生を10人くらい連れて上海へやって来たときに知合った。今、本格的に旅行会社を設立しようとしている。例えば、中国の一般家庭に日本人学生を宿泊させたりとか、他の大手の会社が出来ないような学生を対象にしたツアーを計画したいと話していた。今回も雲南省の旅行の企画のため日本からやってきたのだ。法人として運輸省の許可を取ったり、ホームページを開設したりと、これからやることがたくさんあるらしい。

2000年10月6日(金) 上海に来て半年
上海に来たのが4月5日、ちょうど昨日で半年が経過した。こちらの生活には大分慣れ、不自由する事も有るけれど、どうにかうまく、中国の波に呑まれながらやっている。来たばかりの時に抱いていた、希望や夢は実現したのだろうか?とにかくこの半年は授業に真面目に出たり、中国人と積極的に交流したり、アルバイトをしたりと、自分がやりたいことは、一つ一つクリアしていった。残りの半年はどう過ごそうか?頭の中でいろいろ思い描いたりしている。ただ、後で振返って後悔する事のない充実した日々を送りたいと考えている。

2000年10月7日(土) 国慶節
国慶節は今日で終わり。この1週間の休日をみんなはどう過ごしたのだろう?交通大学の日本人留学生は旅行に行った人よりも上海で遊んだ人の方が多いみたいだ。国慶節はそもそも中華人民共和国の建国を祝うものだけれど、デパートでセールがあったり、イベントがあったりと、とにかくこの1週間は中国全土でお祭りがあって賑わったのだろう。明日からまた普通どおりの授業が始まり、元の生活に戻る。

2000年10月8日(日)
1週間の国慶節が明け、授業が再開。

2000年10月10日(火)
夕方、人民広場の地下鉄駅で女の人に道を訊かれる。人民広場は地下鉄1号線と2号線が交わっていて最も混み合う駅だ。「上海人ですか?」「違います。」「外灘(ワイタン)へはどうやって行けばいいのですか?」「ここから歩いて10分で着きますよ。」こういう感じで道を教えてあげた。最初はこっちが日本人であることに気付いていなかったみたいだ。この女の人は23歳、北京人で今日、上海に出張で来たらしい。外灘は黄浦江に面した一つの観光地だ。どういうわけか僕も一緒に外灘に行くことになった。人ごみを掻き分けて、地下鉄の駅を出て行く。彼女曰く「上海で北京人の私と日本人のあなたが会うなんて一つの縁ですね...」北京の女の人と上海の女の人は雰囲気が全然違うなと思った。なぜか知らないが、一緒に服を買うのに付き合っている自分がいた。そして、来月北京に会いに行く約束までしてしまったのだ。

2000年10月11日(水)
一週間の中で、水曜日だけは午後に授業があるので、いつも遅く起きてしまう。午後の授業は1:10から4:30まで、授業が終わるとあっという間に夜だ。こっちに来るまでは、中国は時間が悠々と流れていく…というような解釈をしていた自分だったが、実際はそんなことはない。用事があってどこかに出かけたり、買い物に行くでも、何かと時間がかかるし、人が多いし、疲れる。日本にいるときみたいに多くの事を片付けることは無理みたいだ。 あっという間に夜になって、このまま留学生活も終わっていくのだろうか?

2000年10月12日(木) 中国で自転車に乗る
今日授業に行こうと外に出たら、すごく寒くてしょうがない。ついこの間まで、酷暑で、最近快適で過ごしやすい秋の風になったと思っていたら、今日はホントに冬の風みたいな感じになっていた。今日、自転車を買った。マウンテンバイクみたいなやつで198元(約2574円)。以前、自転車を持っていたのだけど6月に盗まれたので、それ以降は自転車無しで我慢していた。やっぱちょっと外に出かけるときに自転車がないと不便だ。今日自転車を買う時はカギをちゃんと2個買った。以前盗られたときは1個しかカギをかけていなかったのだ。こっちの人は自転車に2個も3個もかけて盗難を防いでいる。それほど自転車ドロボーが多いのだ。学生がベルトからカギをジャラジャラと下げているのを見るけれど、あれは自転車に2,3個カギをかけている証拠だろう。

2000年10月13日(金) 中国銀行
「中国銀行」は外国からの口座送金を受け取ることができるとあって、大部分の日本人が中国銀行に口座を開いている。日本の銀行が午後3時で閉まるのに対して、こちらの銀行は夜の7時、8時くらいまで営業していて、日曜も営業している。ホントに助かる。その上、上海の場合、24時間のATMもあって、時間外の手数料は不要。しかし、ときどき落とし穴がある。貯金を下ろしたくても、ATMの機械の中にお金がなかったりするのだ。中国ならではかもしれない。銀行の中には様々な機械がある。貯金専用、通帳記入専用、貯金を引き出す専用、面倒にも3つに分かれているのだ。3つの機械が銀行の中に設置してある。いっそのこと、日本みたいに1つの機械にしてやってしまえばいいのにと思うが。

2000年10月14日(土) 中国人の喧嘩
交通大学のすぐ外にあるデパート港匯(ガンホエ)広場で、喧嘩をしている中国人を目撃。中国人の喧嘩はすごい。日本人の目から見ると、大した事のないつまらい理由ですぐ、喧嘩になる。2人の喧嘩に、たくさんの見物人がすぐに集まり、人垣ができる。最初は口喧嘩だが、エスカレートすると殴り合いになる。デパートの中を追いかけあって、「いい年した大人がやめればいいのに...」と呆れるが、本人たちからすると、懸命なのだろう。中国人同士の喧嘩はなかなか、相手が引き下がろうとしない。だから、自転車がちょっとぶつかっただけでも、待っていましたとばかり、喧嘩がスタートする。大体の場合、警察は見ても見ぬふりである。

2000年10月15日(日) サッカー
サッカーのアジアカップ予選では日本はサウジアラビアを4対1で下した。中国人にとってサッカーは非常になじみのあるスポーツだ。日本人が高校野球、プロ野球みたいに、野球に対して親しみを持っているのと同じくらいの感覚なのだろう。不思議な事に野球のルールを知っている中国人は非常に少ないが。大学のグランドでは、いつもサッカーに夢中になっている中国人の姿が見られる。この時期、サッカーのアジアカップ予選とあって、中国人は毎晩、テレビに釘付けだ。先日の韓国対中国の試合ではルームメイトの韓国人チョンも必死に韓国人選手を応援していた。僕にはハングル語は理解できない。ルームメイトの韓国人はテレビに向かって、大声でハングル語を連発していた。結局、中国−韓国は引き分けだったが。

2000年10月16日(月) 日本領事館
夕方、日本総領事館に行く。上海に3ヶ月以上滞在する場合、在外日本領事館への「在留届」の届け出が必要らしく、ずっとしていなかった。邦人保護の対象になるということで、とりあえずしておこうと思ったのだ。領事館に入るのには厳重な警備で、中国人の軍服を着た護衛にパスポートで身分照明をして、持ち物をX線で通して、不審物のチェックを通過して、やっとのことで、大使館の中に入った。大使館の中では、日本人のチンピラっぽい男が大声で大使館職員に向かって何やら叫んでいる。連れの日本人が病気みたいで、日本に緊急搬送したいらしい。パスポートも紛失したみたい。穏やかな大使館職員に食ってかかるように、喚(わめ)きちらす、日本人。結局、大使館職員が上海市内の病院に搬送してあげるみたいであった。ある意味、大使館の仕事の範囲を越えているように思うけど、仕方ないのだろう、邦人保護のためには…。ちょっと複雑な気持ちになってしまった。

2000年10月17日(火) サッカー
上海は寒い。街を歩く人はみんなセーターやウインドブレーカーを着て、冷たい風をしのいでいる。初めて、体験する上海の秋、冬。どいういう感じなのだろう。今日の夜は、テレビでサッカーアジアカップ予選の日本 対 ウズベキスタン戦を見る。結果は日本の圧勝。テレビの実況を見ていると、結構、中国人の司会者と解説員は日本選手の実力を素直に評価していた。

2000年10月18日(水)
夕方、許贇(シイン)が来る。来週末に彼の実家の無錫に遊びに行く予定なので、その計画も兼ねていた。無錫市は約430万の中級都市。中国で4番目に大きくて、琵琶湖の約3倍の面積を誇る湖、『太湖(タイフー)』がある。上海から無錫へは列車で約2時間。無錫は6月30日に初めて行った以来で、今回で2回目になる。上海のような大都市ではないけど、上海ほど、ごみが落ちていなし、人も多くないし、ゆっくりできるだろう。

2000年10月20日(金)
今日の夜は、ディスコのイベントで外灘の近くのBUFFというディスコに行く。友達との出会いがきっかけで何度となくディスコに足を運ぶようになった。ディスコの中にはいろんな人がいる。酒を楽しむ人や、音楽に夢中になる人、そして、ドラッグを売る怪しい中国人。大都市、上海は良いものから、悪いものまで、蔓延しているので、自分自身をしっかり持って生活しないといけない。

2000年10月21日(土)

朝、起きたのが12時、平日は何かと忙しいので、土日くらいしかゆっくり休む事ができない。今日は交通大学留学生のサッカー部が同済大学で試合をやりに行ったみたいだ。あっという間に10月も終わりかけ。来週末は無錫へ、そして来月末は北京へ旅行に行く予定。

2000年10月22日(日) 外文書店・上海書城
来月の6日から10日にかけて、中間試験があるので、リスニングのカセットを買いに外文書店に行く。上海に来て何度となく行っている外文書店。最近、外文書店は改装したみたいで、昔の雰囲気はなくなり、モダンな感じになっていた。中国語学習教材がある1階には、多くの外国人が来ている。中国語を話すのに深さが増すようにと、中国人の友達の薦めで「成語」の本を買う事にした。

2000年10月23日(月) 音楽は国境を越える
 「山河」 五木ひろし 小椋佳 作詞、堀内孝雄 作曲

人はみな 山河に生まれ 抱かれ 挑み 人はみな 山河を信じ 和(なご)み 愛する そこに生命(いのち)をつなぎ 生命(いのち)を刻む そして ついには山河に帰る

今日、中国人の友人が五木ひろしの「山河」という曲が入ったカセットテープを持って来て聴かせてくれた。日本の知人から今日、送られてきたばかりなのだという。その知人の日本人は現在、51歳で以前、中国で中国語を勉強していて知合ったらしい。中国人の友人とはすごく大切な関係らしい。今、病で日本の病院に居るという。「山河」は、その日本人の一番好きな曲らしい。すごくきれいなメロディーで人生の悟りを解くような曲だと思う。奇遇なことにこの歌は中国語の語りかけで始まる。日本語では次のように対訳が書いてある。「心の底から命を感じ取った事がありますか?あのはるか遠い昔、山河からやって来た命を 温故知新...」 中国人の友達が「このテープが彼から自分の元に送られてきた事はどういう意味なのか分かるか?」と尋ねてきた。そして、次のように続けた、「おそらく、彼はもう上海には来れないだろう...。」 音楽は時として国を越えてこんなにも深く人の心に刻み付けるものなのだろうか?

2000年10月24日(火) サッカー
上海はここ2、3日は若干暖かい日が続いている。暖かいといっても、昼間は長袖シャツで、夕方はウインドブレーカーをはおうといった感じだろうか。明日以降、また寒くなるらしい。ところで留学生寮の「桃李苑」はサッカーのアジアカップがテレビで始まると、点数が入るたびに、どこの部屋からか歓声が沸き起こる。とりわけすごいのが韓国人留学生。先日の韓国チームが点数を入れた瞬間、寮のあちこちから悲鳴が聞こえてきた。一方の日本は4−1でイラクに快勝したので、27日準決勝で中国と対戦する。この試合を上海(中国)で見るとはなんだか複雑な気持ちがする。

2000年10月25日(水) インターネット
上海人(中国人)はインターネットが大好き。若者は自由にホームページを開設して、自分の考えを述べたり、自由にインターネット上の掲示板に中国の悪い所を書いて討論したりする。中国のポータルサイトも日本と同じように掲示板BBSやチャットがある。チャットもカテゴリが細かく分かれていて、恋愛や結婚など、中国人の考え方を垣間見る事ができる。日本人からは想像できないかもしれないが、中国人もネット上で恋愛やチャットでデートをしたりしている。

2000年10月26日(木)
上海は急に寒くなった。ワイシャツに薄手のVネックセーター、そして、ウィンドブレーカーという格好で外に出る。明日の夕方の列車で無錫へ2泊3日の旅に行く。上海から無錫まで列車で2時間。無錫には、已に友達が帰っていて明日、駅まで迎えに来てくれる事になっている。2回目の無錫。無錫は上海よりちょっと寒いので、服を着込んでくるようにと、無錫の友達から電話がかかってきた。どういう旅が待ち受けているのだろう?

2000年10月27日(金)〜29日(日) 無錫へ旅行に行く
無錫への旅日記U 『日本人に伝えたい中国の農村』  ギャラリーはこちら

2000年10月30日(月)
2泊3日の無錫の旅から帰ってきた。今回の旅で再認識したものは、中国の大都市ばかりでなく、農村にも目を向けて、中国を理解しないといけないということ。久しぶりの上海は、ムチャクチャ寒い。風が冷たくて、いくら服を着込んでも、九州育ちの僕には適(かな)わない。

2000年10月31日(火) 上海の日本人
上海には、多くの日本人が留学している。賑やかな上海の街を歩いていて、日本人留学生と出くわすこともしばしば。一般に中国人は、外国に旅行することは極めて少ない。だから、彼らは日本人留学生を見て、日本への印象やイメージ、想像を膨らませる。上海で悲しい事は、同じ日本人として、時々、見っとも無い日本人留学生に出くわす事だ。日本人は中国では常に中国人に見られて、観察されていることを忘れてはいけないだろう。彼ら中国人はどうして小さな島国の日本があれだけ世界一の製品を産み出せるのかに深い関心を抱いている。一部の留学生の行動が中国人に間違った印象を与える事をとても残念に思う。

翌月(2000年11月)の日記へ


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