2001年2月15日〜17日
中国留学1年間の締めくくりの旅は、「南京」。歴史的に南京は日本と深いかかわりがある場所である。ずっと前から中国人の友人に南京に行くことを勧められていた。南京に行けば分かるものがある。帰国1週間前にして南京への2泊3日の旅を決行した。
2001年2月15日(木) 翌日
上海駅8時発のT714特快列車で南京までの所要時間は、2時間48分。今回の旅は日本人の友人1人と中国人の友人2人、それに僕の合計4人。南京駅に着き、まずはホテルに移動する。南京という街は緑豊かな場所だと思う。タクシーの中から外を眺めると、道路の両脇に止まることなく植えられた木々が目に入る。秒単位で待ち時間が表示される信号機といい、横断歩道の白線といい、街自体がとても整っている印象を受けた。
新しくなった上海駅を出発
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南京駅に到着
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中山陵
ホテルの近くで昼食を食べて、まず訪れたのが、孫文の墓である中山陵。昔の中国人はたくさん名前を持っていたみたいで、孫文の政治家としての名前が孫中山、中国人は普通、孫文よりも孫中山と呼ぶらしい。
中山陵は革命の父といわれ、三民主義(民族、民権、民生)を唱えた孫文の陵墓。市中心部の東、紫金山に位置する。広大な敷地には緑豊かな木々が生い茂り、参道が上に向かって続いている。孫文は、陵園のいちばん奥の祭堂に眠っている。その青い瓦屋根と白い壁は青天白日を表している。建物は清潔で神聖な印象を受ける。祭堂を入ってすぐのところに孫文の像が建っている。祭堂の天井はタイルを使って装飾されている。奥の墓室に大理石の像があり、この下に孫文の遺体が安置されている。遺体は1929年に北京から移されてきたものだ。(地球の歩き方より抜粋)
下から上を眺めると段々が連なっているが…
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上から下を眺めるととてもなだらか
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中山陵の建築手法はとても興味深い。参道に向かって上を眺めると果てしなく段差が続いているが、頂上に上ってから下を眺めると、途中の段差は隠れてしまって見えず、あたかもなだらかになっているように見える。中国人の友人が面白いことを言った。「人生もこれと同じで、前に進むときは段差(障害)があって大変かもしれないけれど、達成して、ふと後ろを振り返ると平坦で、美しいものだよ。」
中山陵の頂上で日本人の友人と話しているときのことだった。僕らの話す日本語を耳にしたある年配の中国人がこちらをじっとにらんでいた。 こういう事は次に訪れた霊谷寺でもあった。
南京は日本との歴史的な背景もあって、今もなお南京の人々には日本を受け入れることができない体質があるのだろう。
中山陵碑亭。孫文が眠っている事を示す碑。この中に遺体が安置されてある。付近の木々は全てがこの方向を向いている。
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黄色の矢印部分に注目。前足が欠けているのは、昔の日本軍による南京侵攻の時の空爆によるものらしい。南京には、これ以外にも日本との戦争による爪跡が多く残っている。
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霊谷寺
中山陵をあとにして、タクシーで移動すること5分、明治初期に建設されたという仏教寺院の霊谷寺に着いた。平日の夕方ということもあってか、誰1人いない、ひっそりとした雰囲気である。門をくぐると両脇にずらっと植えられた木々が目に入る。そして、一直線に参道が続く。
両脇に立つ木々、一直線に参道が続く。
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高さ約60mの霊谷塔
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翌日
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